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「たられば妄想」(仮定法過去)Vol.2

前回に続き、
「たられば妄想」(仮定法過去)Vol.2を始めます。

その3
「建設業を進路として選ばなければ・・・・・」。

ゼネコン  34年(広報→現場→広報→営業)
同子会社  7.5年(ミュージアム)
ゼネコン  2.5年(社史編纂)
合計    44年 これが私の建設業で働いた内訳です。

T社広報部最盛期時代.jpg
↑35,6年前の広報部。矢印が私。会社もキラキラ輝いていた時代でした。

私が幼いとき逝った父の影響?
2人の兄たちがその遺志を継いで、建設業へ。
風呂屋の子で育ったのに、私も建設会社へ、それも兄弟3人同じ会社。

在学中、
私は最初から建設に決めていたわけではありませんでした。
昭和42,3年は、まだ景気もそう良くはなく、
田舎には母が一人で風呂屋をやっておりましたので、
私くらいは残った方が良かったかも。

でも風呂屋は商売としては発展性はなく、
廃業を見据えて市役所にでも就職する、という選択肢もあった・・・。

母は、私の就職については一言も言いませんでしたが
たぶん心の中では、
兄たちがみな旅に出ている(高田から離れている)ので、
一人くらいは残って欲しかったと思っていたのではないでしょうか。

その母が亡くなって、もう20年になります。

▀その4
「連れとの出会い」

このタラレバをたどると
結局、父が土建業をしていたところと
2人の兄たちが、父と影響を受け、
同じ会社に就職していたというところにたどり着きます。

連れと私は、同じ会社。

T社人事部1970年頃.jpg
↑これは入社案内制作のため撮られたもの。左の方に課長の前に立っているのが私、蛇足ですが、連れが一番右で仕事をしています(もちろん、所属の部署は違います)。
机には黒い電話機だらけ。もちろんパソコンもございませんね。昭和46年頃の写真です。

人生とは、「ご縁」の連続ですね。

連れの就職とて
たまたま彼女の父から進められたのがきっかけ。
思うに本社が銀座にあったというのも、選択の要因では?
何ともうしても、「世界の銀座」でございますからね。

こうして書き綴っておりますと、
「たられば」の連続があって、いまの私がいるんですね。

これからは、残っている時間も少ないですから
ドラマチックな「たられば」はないでしょうね。

また、いろいろ振り返って
「たられば妄想」(仮定法過去)Vol.3をまとめたいと思います。






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「たられば妄想」(仮定法過去)Vol.1

If I were a bird, I would fly to you・・・(現在の仮想) 、
If I were a bird, I could have flown to you・・・(過去の仮想)

Seagull.jpg

なぜか英語苦手の私が、
この文だけはスラスラ言えるのが不思議です。

最初の方は、
「私が鳥だったら、私はあなたの所へ飛んでいく」
あとの方は
「私が鳥だったら、私はあなたの所へ飛んで行けた」と
過去の仮想状態を言うんだそうです。

そういえば、ジョン・レノンの曲に
「Free as a Bird」というのもあったなぁ~。

で、
私の70年を振り返っての「たられば妄想」(仮定法過去)の始まりです。


▀その1
「もし 私が 片親でなかったら・・・・」

これは、自分のいまを定める大きな要素です。
父は田舎の土建屋で、苦労して自分の会社を立ち上げ
家庭を顧みない?仕事人間。
それが、過労で肺炎を起こし入院し、
こともあろうに
病院を抜け出して現場まわりをしていた、と母は話していました。
でも、体力尽きて49歳で他界。
昭和25年の6月のことでした。
私、数えで5歳の時です。
そのあとは、
明治女の母の奮闘で姑と5人の子供を抱えての暮らしです。

もし、
父が病に倒れなかったら私はどうなっていたのでしょう?

母は風呂屋を始めなかったでしょうし、
私は、そんなに父を意識しなくて、
もっと別の商売に就いたかも。


▀その2
「もし 私が 体操部に入っていなければ・・・」

高校1年の夏休みに
幼馴染みのN君が私を誘って高校の体操部の練習を見に行きました。
それがきっかけで、8月末から体操部員。
何も分からず、頼まれるとイヤだとは言いにくい性格。
で、入部したのはいいけれど、
マット3枚の上を前転して立ちあがったら、気分悪くうずくまる。

1年生の部員が夏休み前にやめて
最低でも1人どうしても補充しないと、
来年は試合に出られない、という状況を知ったのは
私が入部してからのこと。

そんな私が1年後にはインターハイ出場。
その翌年には国体に出場して優勝~、っていうことになるんです。

1965,2月,県スポーツ賞.jpg
↑高校男子団体徒手で優勝、新潟県の天皇賞にちょっと貢献。私は右から4番目。

もちろん勉強は後まわしゆえ、
進学は入れるところに入る,というのが現実でしたが、
もし、
N君(いまや大化学メーカーY社の会長さんです)が
私を引っ張らなければ、
たぶん「可もなし不可もなし」のフツーの、だれの印象にも残らない高校生。

いまだにN君は、オレがお前を男にした、と
豪語していますけど、確かにその通りでしたね。

でも、3年の秋までほとんど勉強しなかったので、
もし、ちゃんと勉強していれば、違う人生を歩んでいたでしょうね。

1964,3年引退後プール脇で.jpg
↑プール脇で2年生と組み体操遊び。3年の10月には現役引退。私は左から2番目。

もし進路を体育会系の学校にしていたら、
体育の先生になっていたでしょう、教え子との出会いも・・あったかも。

次回の妄想は

その3
「建設業を進路として選ばなければ・・・・・」。

妄想は続く どこまで続く・・・であります。


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私、保険難民?かも・・・

「お客様はあと2年半、
お入りになれる保険はございませんね。残念ですが・・・・」

頭では分かっていたつもりでしたが
某ショッピングモール内の保険相談センターで
ベテラン女性社員(Financial Planner)から言われた言葉に、
私も連れもちょっとだけ寡黙に・・・・。

前の会社の
OB向けに発売されていたグループ医療保険は、
掛金もリーズナブルで配当もよく、実質半額。
それが限度の70歳になるので、
解約となる、という手紙が届きました。
一緒に入っていた連れも資格なし(解約)に。

70歳以降の保険のパンフレットも同封されていましたが
これらは保険料がかなり高額です。

冒頭の女史コメントは、
どの保険も三大疾病がないのが条件で
5年経過していることが条件とのこと。

私のガンは、
2013年の夏ゆえ、まだ2年半しか経過していません。

だから加入条件を満たしていない・・・、おっしゃることは正解です。

「うーん~・・・」

これはある意味大変なことですね。
私は病気できない、
入院しても補填するものが何もないわけですから。

前の会社を辞める前から、
アヒルが出てくる保険会社の「がん保険」も解約しておりました。
年金生活に入る準備のため、できるだけそぎ落としておこうと考えたからです。

辞める時に受けたドッグでガン発覚。
そして入院手術。

いやいや運命というものは実におもしろい?

古い資料ですが「全国がん(成人病)センター協議会」の
食道がん10年節目の生存率のグラフです。
進行状態(ステージ)別の生存率ということになりますか・・・。
すべてのガンの比較でも、そう生存率は高くないということになります。

食道ガン生存率1.jpg
食道ガン生存率2.jpg

お話し変わり、
連れは窓口の方と十分に話をし、
掛金が一番少ない保険に入ることになりました。

連れは大きな病気何一つせずに60有余年生きてきましたが、
やはり「万が一」ということは否定できませんから、
まさに念のため。
私のことより、それが決まってホッとしました。

「私が入れる保険がないことがわかりました。
とにかくこれから2年半は健康?でいなければ・・・・・」

「お客様、入れる保険はあります。
どんな病気でも受け取れる保険があるのです。」

「えっ、それは?」

「死亡保険です。いわゆるお葬式費用の準備でして・・・。」
でも掛金は結構高くて、100万円コースならば毎月9千円前後・・・・」

「途中で亡くなったら?」

「時期にもよりますが、積立額の何割とか・・・・。」

「1年で約10万円か・・・。10年生き積み立てても100万。う~ん・・・・」

ちょうど昼ご飯の時間になりました。

連れと私は、言葉もなくレストラン街をフラフラと歩いておりました。



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44回目の結婚記念日、連れと久しぶりの銀座

先日,
結婚44年の日を迎えましたので
若い頃一緒に働いていた会社のあった銀座にまいりました。

こういう節目の機会でなければ
現座になんて行く機会はなかなかありません。

今回は、連れのご要望で
3月末にオープンした「東急プラザ銀座」見物となりました。
この場所は、元「東芝ビル」(銀座マリオンの向側)があったところです。

銀座東急プラザ1.jpg

http://ginza.tokyu-plaza.com/

元ゼネコン社員ゆえ、
耐震改修工事をS建設がやっていたのを立ち止まってみていました。、
あるとき仮囲いができ、あっというまに解体(哀れ)、
更地になったところまでは知っていましたが、2年半ぶりに訪れると
「東急プラザ銀座」が誕生しておりました。

途中階から日比谷方面を見下ろすと、
「ニュートーキョー」(ビアホール)がありません。
元働いていた会社が,ビルを解体して建て替え工事をしているようです。
あまりに長く眺めていたので、連れに注意されました
(言われなくても分かっております、もうあなたは現役じゃないんだから・・・)。
銀座東急プラザ2.jpg

屋上は、開放的なテラス。
「キリコテラス」というところですが、
銀座のビルの屋上にこのようなスペースのあるのは珍しい。
(昔むかし、「松屋デパート」の屋上には小さな遊び場やお店あったけど)
銀座東急プラザ3.jpg

銀座東急プラザ4.jpg

銀座東急プラザ5.jpg

昼時でしたのでとにかく飲食店のある10,11階へ。
相対的にすいているところを優先するのは私たちのルール?で、
選んだのは、「魚河岸 次郎松」の天丼。
ランチメニューで大きな穴子とエビ、そして何と言っても価格が決定打でした。

窓側で、待っている間、下を覗くと
見慣れた「銀座熊本館」。
そこにたくさんの人たちが行列をつくって並んでいます。
銀座東急プラザ6.jpg

http://www.kumamotokan.or.jp/

地元支援販売を行っているのです。
今回の「熊本大地震」への気持ちを表す人の行列です。

「東急プラザ銀座」がオープンしてまだ1ヶ月ですので
館内はどのフロアもひとであふれていまして、お茶するところがありません。

で、ようやく見つけたのが6Fの「数寄屋橋茶房」。
ここはおよそ25mはある大きな吹き抜け空間があるレストランで
たまたま席が空いていましたので、メニューを見ることなしに入りました。
銀座東急プラザ9.jpg

銀座東急プラザ8.jpg

このお店でサプライズ。
オーダーを聞きにくれた女性スタッフさんが
「お客様、失礼ですが
銀座のケネディハウスの常連さんでは?私、夜はそこで働いているんです。
お客様のお顔はよく存じております・・・。
まだボトルもございます。」

私はまさに、「えっえ~・・・」でありました。

確かに25年以上前に
六本木の開店時代から通っていたライブハウスですが、
リタイヤしてから、
また病気で酒が飲めなくなってから、とんとご無沙汰状態。
もう1年半以上は顔を出していません。
なのに、顔を覚えていてくれた・・・・。

減座の風景を眺めながら、
連れとしばしこの話題で話をしていました。

銀座は、私たちにとって思い出の場所。
昭和44(1969)年の同期入社ですし、
1丁目から8丁目の銀座中央通りはもちろん、いろいろ知っています。
もうあれから47年、街も変わったけど私たちも変わりました。

帰り道、すぐには有楽町駅に向かわず、
4丁目から2丁目まで歩きました。
休日ゆえ、「歩行者天国」で、外国人観光客もたくさんいました。
銀座東急プラザ10.jpg

2丁目角の「三共」(薬屋)は、ずいぶん前からブランド店に。
銀座東急プラザ11.jpg

今年で44回目の結婚記念日は、
二人ともお上りさん気分で楽しめました。





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高田の春は爛漫と~♪

施設に入居している80歳の姉の様子見と
ついでに
ふるさと・高田城址公園の夜桜(日本3大夜桜)を
見物してきました。

幼いときから4月になると「花見」が楽しみでした。
夜店がいっぱい出ていて、
母から貰ったお小遣い(100円くらいか)を手に
ワクワクしながらお店をのぞいていた自分を思い出します。

フラッシュや夜景用の設定が難しくそのままで撮りました。
高田夜桜1.jpg

しだれ桜も有名です。
高田夜桜3.jpg

何と言っても三重櫓と桜は絵になります。
高田夜桜4.jpg

長兄夫婦との観桜会。
兄(79歳)に撮ってもらいました。
高田夜桜2.jpg
もうすっかり老夫婦です。

帰り道、ふと考えました。
「あと何回、高田の桜を観に来られるか・・・・。」
花の命は短くて・・・、と思わず口に出てしまいますが、
私の人生のほうが短いことを思うと、
毎日おろそかには出来ないなぁ、と何だか気持ちがさっぱり。

さぁ、明るく、元気にまいりましょう。

タイトルの「高田の春は爛漫と~」は
市民歌となっている「高田の四季」の冒頭の歌詞です。

https://www.youtube.com/watch?v=Hm32uBvPUQw

歌詞の言葉ひとつひとつに思い入れがあり
何だか目頭が熱くなります・・・・。
古希目前になると、涙もろくなるのでしょうか?




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やっぱり私は「高齢者」!?

週末、
またもや「やっぱり私は、高齢者」と
(不本意ながら)思わせる通知が我が家に届きました。

高齢者用肺炎球菌ワクチン予防接種20160402.jpg

市からの
「高齢者用肺炎球菌ワクチン予防接種予診票在中」と表記された封筒がそれです。

時折「西田敏行」さんが出ている肺炎予防のCMですね。

平成28年4月から平成29年3月の年度内に、
65,70,75,80,85,90,95,100歳になる方が対象のようで、
市内の病院、クリニックなどに予約を入れてからの接種となります。

それにしても
やっぱり私は「高齢者」なんですね、区分上は。

いま、4月入社の新入社員研修のお手伝いをしていますが、
18歳から22歳のフレッシュマンに接すると、
私はさほど隔たりはないと思っても、
彼らにとっては、
50歳もの差があるオジイサンになっているんですなぁ~。

通っている市営のスポーツセンターは
68歳以上マシンは無料、
シネコンでの映画鑑賞は、 千円ちょっと。

こうして、自分の意識とは関係なく、
老いの囲い込みの現実を知るのでありました・・・。



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チラタ水力発電所 ある「偲ぶ会」

インドネシアに100万KWの電力と34億トンの水の供給を可能した
ジャワ島中部の大きなダムと巨大な地下発電所。

建設当時、その現場の工事長だったSさんが1月に亡くなり
2月末、当時現場や本社で関わった方々80人が集まって
東京・新宿のあるホテルで「Sさんを偲ぶ会」が開かれました。
ジャカルタから
当時のインドネシアスタッフもいらしていました。

20160229 Mr.shishido-hide-oneself.jpg

この工事は
土木・事務社員最大40名余、技術指導員を含めると200名、
そして同国の作業員5,000名が24時間の昼夜兼行で建設した大プロジェクトでした。

1988年7月完成のチラタ(CIRATA)ダムは
堤高126m、堤頂長456mのコンクリート表面遮水型ロックフィルダム、
その総貯水容量は31.65億㎥(日本大ダム会議資料)。

同時に着工された
地下発電所は、幅35m×高さ49.5m×奥行253mの巨大なもので
ちょうど超高層ビルを横に寝かせた感じの大きさになります。

私は、当時広報部にいて
記録映画の撮影や社内報の取材、
TVコマーシャルの制作で数回訪れています。
インドネシア・ジャカルタ国際空港(スカルノ・ハッタ国際空港)から
車で4時間近くかかるバンドン(バンドン会議 1955年4月)の手前。
いやはや毎回乗っているだけで疲れ果てました。

その工事の責任者で東北ご出身のSさんは、
いかにも土木屋という風貌で(建築屋さんと違う雰囲気)
背は高く、声も大きく、日本語で話されるときは東北弁そのまんま。
その声で、社員やスタッフをリードされました。

「おう!、Mちゃん、ご苦労さんです!」
取材や撮影で私たちが行くたびに声をかけて下さいます。

「偲ぶ会」のSさんの写真を見つめると
その姿と声が蘇ってきました。

ひとは一生の間、
数え切れない人たちと会って人生を終えるわけですが。
同期が、元スタッフや部下の方々が、
こんなにも集まって、
それぞれの人生の中で出会ったSさんを偲ぶなんて、
羨ましくもあります。

ご遺族の方々の答礼ご挨拶も心に響きました。
現役時代、別居がちな父に対する思いはいろいろですが、
マジメに真剣に一生懸命取り組む父の姿は、
しっかりとお子さん達に刻み込まれておられました。

建設に関わるすべての人々の
生きた証は大小に拘わらず、自分が手がけたものが「残ること」です。

つい先日、
北海道新幹線が開通しました。
青函トンネルは24年かかった工事ですが
海底部24km、全長53.85kmを
これまで在来線特急ならわずか?24分前後でくぐり抜けました。

数年前連れと北海道を旅をしたとき、
工事中に取材に訪れたこの工事を思い出し、
ずっと暗い車窓を眺めておりました・・・。

いまの新幹線なら半分くらいなのでしょうか・・・・。

私も現役時代のいろいろな思いが膨らんできた
いいSさんの「偲ぶ会」でした。

ありがとうございました・・・・・。





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スマホ落として、新宿駅奔走 顛末記

機種変更してちょうど1ヶ月の先日、
2ヶ月ぶりで新宿へ出かけた私でしたが
電車を降りるとき
内ポケットに入れ直した(と思っていた)スマホをなくしました。

それが分かったのは
西新宿のあるホテルでの集まりに参加するため
急いで歩いている途中に、前職の会社の方に会って
立ち話をしていたときでした。

「Mさん、携帯の番号を教えてよ」

で、私
内ポケットに入れておいたスマホを取り出そうとして
それがないのに気がつきました。

別れの挨拶も早々に
「さぁ、どうする?」でありました。

最後に触れたのは、
ホームで電車が着く直前、
手にしていたスマホを内ポケットに入れたときです。

ホテルでの会が始まるまで30分でした。

以下は、その時の 顛末記。

まず、落としたとすれば
内ポケットから滑り落ちたこと。
コートを着ていたし、
ちょうど5時半、帰宅の人たちで混み合う時間帯でした。
そうだとすれば、電車から降りてまだ20分も経過していません。

最初に行ったのは、降りた改札口。

私「あの~、ホームあたりでスマホ落としたんです。
新宿駅1番線着16:48の埼京線です・・・・」

駅員「ホームに戻って探しますか?」

私「??・・・」

駅員「落として間もないのなら、
まだ遺失物センターーには届きませんね。
もう少ししてから、ここへ電話してください。
冷たいようですが、ここでは何もできません・・・」

そう言われて、わたされたのがこの小片。

JR忘れ物問合せ20160229.jpg

例え電話をかけるにしても
西口近辺の公衆電話がほとんど撤去されているのは前から知っていました。
その上、
こういうところへ報告されるのは、早くても2,3時間後
(若いとき電車の網棚にカバンを忘れ、経験しました)。

困った顔をしていいる私を見た駅員は
「西口中央改札の事務室で事情を話して下さい・・・」と。

そういえば、
駅員の窓口には自動改札を通れない人たちが
6,7人も並んでいます。

急ぎ足で、西口中央改札へ向かいました。

私「スマホ落としたのですが・・・・」

駅員「埼京線で降りたのなら、ホーム事務室へ行って下さい。」

私は、スイカで構内へ。
そして埼京線ホームに向かいます。
構内もホームも帰宅の会社員であふれんばかり。
その中をかき分けて埼京線ホーム階段を駆け足で上がり
事務室を探しました。

分からないので改札口の係員へ声をかけます
私「スマホ落としたのですが・・・・」

駅員「どの辺ですか?いつそれがわかました?」

私「15分前です・・・」

駅員「それなら、埼京線ホーム事務室へ行って聞いて下さい。」

私「わかりました。ホームのどの辺にありますか?」
埼京線は、湘南新宿ラインも含めホームが4つもあるのです。

結局私は、
広い広い新宿駅を下図の矢印ように動きました。

新宿駅走り回りweb.jpg

ようやく
教えられた埼京線1,2番線ホームのホーム事務室へたどり着きました。

「あの~、スマホ落としたのですが、届いていないでしょうか?
25分ほど前このホームで降りたとき、落としたようなんですが・・・・」

構内業務の委託を受けている係員のおじさん(私よりもはるかに若い)
「どんなスマホですか?」

私「黒の手帳型の革ケースなんですが・・・・」

係員は狭い事務室の小さな机の引出から
何か取り出しました。
A6くらいの白い紙に黒いものがゴムバンドで止めてあります。

係員「身分証明書を見せて下さい。
いつ頃ですか落としたのは?お名前は、ご住所は?・・・・」

住基カードを提示しました。
それには私の顔が載っています。

係員「この用紙にご記入下さい」

なかなか私のスマホらしい?黒いものを見せてくれません。
用紙を出してようやくスマホを受け取りました。

私「ああ、よかった・・・・。助かりました。
ありがとうございました。
それにしても、
渡していただけるまでかなりきちんとチェックされるんですね。」

係員「スマホを受け取ると何も言わずに走り去るお客様もいるんですよ。
届けられた状況もきちんと確認し、本人確認もしてからお渡ししています。」
でも、こんなにすぐに届けられるのは少ないかも知れません。
よかったですね。」

かくして
1ヶ月前に機種変更したばかりの私のスマホが手に戻りました。

なくしたスマホ1.jpgなくしたスマホ2.jpg

反省点。

1.内ポケットにしまうときには底まで届いたか負荷を確認する。
  入れたつもり、は同様の失敗につながる。
2.電車の中では操作はしない(使わない)。
3.出来ればストラップをつける(首に回すのは幼稚園児のようでイヤだ)。
4.落とした際のセキュリティ確保を学ぶ。
5.ときどきバックアップを取る。
6.ときどき行くところの公衆電話の場所を確認しておく。
7.テレフォンカードを(探して)1枚くらい持っておく。

18時からホテルで開かれるその集いには
約5分遅れて到着しました。
私にすれば、どんな会でも
いつも2,30分前には到着するようにしていましたが、
今回ばかりは、ヘトヘト・・・・。

歩数計を見たらいつもより約4千歩多い。
理由は、上図の通り構内を走り回っていたからです。

いやはや疲れました・・・・。



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「インフルエンザA型」がやってきた

インフルエンザA型にかかってしまいました。
昨秋11月、流行を前に、予防接種したにも拘わらず、です。

不調になってから10日たっても
まだ咳き込み、熱はないもののカラダがだるい・・・。
春のような天気と急に寒くなったりと
さほど自然に敏感ではないのに・・・。

20日午後より
咳はひどくなる、節々が痛い。身体がだるい・・などなど
風邪の症状が出てきましたので、会社を早退し
帰宅後風呂も入らず20時半よりベッドへ・・・・。

日曜はひたすら寝て養生、

月曜日に内科クリニックへ行って診断の結果
「インフルエンザA型」と。
5日間は薬を飲んで家の中で「蟄居」とのこと。

予防注射しても
かかる人はかかるという医師の説明に
「私のあの数千円は どこへいったのでしょう・・・」と
言いたくもなる。

いただいたお薬のひとつがこれ。
インフルエンザ薬-20160222.jpg

この薬、服用するのがとても難しかったです。
インフルエンザ薬チラシ.jpg

何とか飲みましたが
振り返ると、この薬で劇的に回復は・・・・なく。
ダラダラと今日まで過ごしています。

やはり風邪(インフルエンザを含め)は、
ひたすら養生し家で回復を待つしかないようです。

月に1度通うクリニック(糖尿病)では、
その養生の効果?(体重1kg増加)でA1cは大幅に増加し、
女医先生からお叱りを受けました。

「いつものように食べて、
意識してカラダを動かさないから、こうなるのよ!
もっと真剣に考えなさい!」

(ええ~っ先生、私インフルエンザだったんですよ~!)

そうは答えず、
「(おっしゃる通りであります)
次の検診のときには、数値が下がるよう頑張ります・・・」
とお返事しました。

私のインフルエンザは、
連れにはうつりませんでしたが、
どうも後から聞きますと、会社の方2名に広がったようです。

ごめんなさい・・・。


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ひたすら、前向きになる映画「オデッセイ」

先日、映画「オデッセイ」を連れと一緒に観ました。
とても面白かったです。

オデッセイポスター.jpg

(オフィシャルサイト)
http://www.foxmovies-jp.com/odyssey/


実はいま
原作「火星の人」(アンディ・ウィアー著)
上下2巻の文庫本の下巻を読んでいる最中なんです。
映画を観てしまったので、
結論が分かってしまいましたが、
それはそれで安心?して最後まで読み通すことが出来そうです。

火星の人 上.jpg火星の人 下.jpg

小説は、
いろいろ情景やらイメージも膨らんで楽しいのですが、
映画はその余裕をくれません。

火星は若干の空気のようなもの(確か0.01%)、
赤い色は酸化鉄というあまり知識のない私なので、
行間からは具体的なシーンが見えてこなかったのですが、
映画はそんなモヤモヤを一瞬のうちに吹き飛ばします。

興味深いシーンは幾つもありましたが
小説では味わえないことも・・・・。
植物学者の主人公ワトニーが
生き延びるためジャガイモの栽培を始める話は
さすが、
と思ったのですが、その栽培シーンがモヤモヤしていました。
それが映画で厚さ10cmに土を敷き詰め、
有機肥料(主人公の排泄物=うんち・おしっこ)で育てるさまが
よく分かりました。

また水を化学的につくるなどは、
化学が不得意だった私にも理屈が分かりました。

流れる曲はロックやディスコ調のものですが
その曲はクルーの好みだったりして、懐かしい・・・。

その極めつけは
エンディングロールの曲。

いつものように、
ネットで
「映画 オデッセイ エンドロールに流れる曲」と入力し検索しますと
あっとい間に
「Gloria Gaynor  I Will Survive 」と結果が分かり
その曲にアクセスできます。

https://www.youtube.com/watch?v=XZGwHtGBZJU

そうそうこれこれ。この曲でした。
思わず両肘を曲げ、曲にあわせて一人部屋で踊りました。
気分爽快です。

エンドロールの中に
この映画の制作で
15,000人の雇用を創出したとか、という文も流れていました。

いつもながら、
このエンドロールには、
制作に関わった人(ほとんど)すべての名前が出てきます。
移動の際のドライバーの名前まであるのですから、
みんな仕事に一生懸命になりますよね。

また領土に関して、
海事法の解釈も映画の中に出てきます(もちろん小説にも)。
火星は国際条約で地球の領土権が及ばないので、
着陸機の外は、「公海」になるとか。

とにかく主人公ワトニーの生き抜く前向きな姿勢と
記録(ログ)を残すという冷静な取り組み方に感動しました。

私も、「生きた証を残そう!」と取りかかりましたが
この映画のおかげで、何だか元気が出たみたいです。
75歳までに、まとめるぞ~!



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30年以上前の難工事  臼田宇宙空間観測所大パラボラアンテナ

先日のY紙夕刊に
「長野県臼田町にある「臼田宇宙空間観測所」が
3年後に役割を終えるという記事が出ていました。

臼田記事全体web.jpg

ここが有名なのは
ハレー彗星が地球に近づく年、
昭和61(1986)年に
ハレー彗星観測用惑星探査機「さきがけ」を追跡するために
旧長野県佐久郡臼田町(佐久市)に建設されたからです。

巨大なパラボラアンテナは
直径64m,重さ2,000トンの規模ですが、
このアンテナを支える基礎工事を
実兄が昭和57(1982)7月~昭和59(1984)5月の足掛け3年手がけました。

標高1,456m、厳冬期には氷点下20度にもなるところで
周囲は国有林という状況に工事用の道路を建設し、
氷点下マイナス10度でも連続して高品質のコンクリートを打設するのは、至難の技です。
建設関係の方なら、
厳冬期GL-5m掘り下げ、ダムのようなマスコン打設の大変さはお分かりでしょうが、
事務屋の私でさえ、言葉が出ませんでした。

先日この新聞記事を送ったところ、兄のお礼メールには
「・・・基礎地盤で、基礎コンクリート・躯体など全面シートで覆い、
サラマンダー(工事用暖房機)を配置。
コンクリートの養状温度自動記録計の設置、灯油の補給等、
我ながら良くも出来たものと感心しています・・・・」
と書いてありました。

竣工式は、昭和59(1984)年10月31日。
現場所長として現役最後の責任を果たした兄は、
その感動をいまも熱く語ります。

平成15(2003)年5月6日放映のNHK・プロジェクトXには
「ハレー彗星に突入せよ 76年に一度の大勝負」として
この臼田宇宙空間観測所建設が紹介されました。

取材を受け、工事に関わる資料を提供した兄でしたが、
放映された番組には、最後の協力者テロップに名前があるだけで
工事のようすは写真1枚もなく終わりました。

私もその番組を見ました。
番組構成上やむを得ないのでしょうが、
工事に携わった作業員の姿が画面には1人もいないのは、残念でした。
建設の仕事というものの宿命ですが、
一人一人の工事関係の方々は、
「あれはオレがやったんだ」という思いがあるのは共通でしょうね。

この観測所にはのちに感動的な物語が・・・。

探査機「はやぶさ」は
平成22(2010)年6月13日に60億 kmの旅を終え、ようやく地球に戻って来ましたが、
その追跡を支えたのが、この大パラボラアンテナでした。

恐らく工事関係の人たちは、
熱い思いでこのニュースを見ていたのでは・・・。

この工事については、
広報部にいた私は後年企業広告のテーマのひとつに取り上げ
下のような15段全面広告を掲載しました。

臼田宇宙観測所.jpg

立場は違いますが、
兄弟一緒に関わったことを誇りに思います。

30年以上前の工事ではありましたが
今年79歳を迎える長兄にとっては「心に残る仕事」だったと
携わったことに感謝していると思います。

建設の仕事は
規模にかかわらず残るからおもしろいし,
やり甲斐がありますね。





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思い出ポロポロ?・・千枚以上の写真整理始める

古い紙焼き(プリント)写真が千枚以上たまっています。
今春節目(古希)を迎えるに先立ち、
この手提げ3袋、紙箱5個にもなったものを整理し始めました。

残す基準は、
その当時の私の姿が分かるもの、その思い出がたどれるもの。

ところがなかなか作業は進みません。
1枚1枚に見入り、あのときはああだったなぁ、
あの人はいまどうしているだろうと、思い出が次々と・・・・。

例えば、これら。
写真整理5 20160124.jpg

昭和62(1987)年6月末から約10日間、
スリランカの3ヶ所、タイの1ヶ所の現場を取材に行ったときのものです。

会社はスリランカのコロンボで
ヒルトンホテルを手がけていましたが、その竣工式とオープンの取材です。
Hilton Clombo.jpg
(Hilton Colombo HPより)

29年前ですから、私若干40歳。
仕事が面白くて楽しくて仕方なかったころですね。

ホテルスタッフ達と記念写真。彼らももう50過ぎでしょう。
写真整理3 20160124.jpg

ホテルの領収書も出てきました。
写真整理6 20160124.jpg

これも
スリランカ中部の州都キャンディ(町全体が世界文化遺産)の現場を取材したあと
有名な仏陀の歯が安置されている仏歯寺や市内を見物したときのもの。
写真整理4 20160124.jpg
右は現場の事務屋さんで左は友人です。

プリント写真をスキャンする道具がこれ。
写真整理7 20160124.jpg
ナカバヤシのフォトレコPRP-100という写真取り込みツールです。
古いモノゆえ、いまはもっと新しいのが出ているでしょうね。

やり始めて2時間。
テーブルの上はこのありさま。
写真整理1 20160124.jpg
写真整理2 20160124.jpg

わずか120枚しか取り込めませんでした。

40歳の頃、確かに私はコロンボにいた・・・・、
それだけでも確認できたのはとてもうれしいのですが、
思い出♫ポロポロ?♪・・では、なかなかはかどりません。

でもやろうと思ってやり始めないよりは、
いいかぁ~、と思って今日の作業は終了といたしました。

この先、まだまだ大変です・・・・。









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雪の朝

2年ぶりの降雪もはや雨に変わりつつあります。

天気予報によれば、当地は10cm、
それも湿った雪、ということで雪国生まれの私はすぐに段取り。

きゃしゃな我が家のカーポートを守るため
昨夜は9時過ぎに、片持ち屋根の張り出し部に2本の支柱を立てました。
朝になってかなりの積雪になれば、
倒壊防止のためシャベルでその屋根の雪を書き出す用意も。

明け方に目が覚めたら
すぐに廊下の窓からしんしんと降る雪の状態を確認し、
峠は超えたと判断(ここらへんが雪国生まれの技?)、またベッドへ。

雪の大きさ、降る速さなどから
積もる雪の見通しが何となく想像でできるのも
越後・高田生まれならではです。

ラジオで天気予報を確認しいつもより少し早く起きて
家のまわりを窓越しからみると・・・。

雪の朝1.jpg
雪の朝2.jpg
雪の朝3.jpg

カーポートの屋根の雪は,約10cm。湿った雪ゆえにかなり重そうです。
昨晩のうちに支柱(サポート)を立てて置いて正解でした。

テレビニュースは、大雪で首都圏の交通は大混乱。
すべてって転んだ人が病院へ、とかいう内容です。

「大雪」という感覚は
やはり東京と私の田舎では一桁違います。
高田では,昔は市の中心でも2mとか2.5mとかありましたので
10cm程度では、ふ~ん、っていう感じですが、
通勤する方々にとっては大問題。
アナウンサーは立川駅前で興奮気味に雪の中に指を差し込み
指の付け根まで入ってしまいます!!、と叫んでいました。

雪はやがてみぞれに変わりました。

明日の朝は冷えるそうですから
道路やレールポイントの凍結などで混乱するでしょうね。

でも、私は
上の写真のように家のまわりに雪がある光景に
何だかホットするような思いもしました。

もう田舎を離れて51年になります。
まさにふるさとは遠くになりにけり、ですね。


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ズシーンと響いたある台詞

「最近は、”考え”よりは”気持ち”なのよね。

今の時代のひとつの問題は、
人々の関心は、”どう感じるか”で ”何を考えるか”ってことじゃない。

”考え”とか”アイデア”こそが面白いのに、”考え“が”言葉”になる。
その言葉が”行動”になる。
その”言葉”がやがて”習慣”になる。
”習慣”がその人の”人格”になり、
その”人格”がその人の”運命(さだめ)”となる。

”考え”が人間を創るのよ。

これは私の父の言葉、
言っとくけど 私は健康よ。
でも、あなたのご心配には感謝します。」



女性初の元英国首相
マーガレット・サッチャー氏を題材にした映画「鉄の女」のBS録画をみました。
映画では、彼女の人生を、
主に戦中の時代から1990年首相退陣までの回想を挟みながら描かれています。

メリル・ストリープが
マーガレット・サッチャーを演じました。
本作品は、2012年にアカデミー賞主演女優賞を獲得しています。
映画「鉄の女」.jpg

その中で
ふと目にした字幕の台詞が気になり、思わず書きとめました。
引退してからの生活で彼女が認知症を患っていく際に
主治医と交わした会話です。

録画を何度も一時停止し書きとめ、
また再生する・・・・・。これを繰り返してメモしました。

それが冒頭の文章です。

サッチャー現役.jpg
↑現役時代(photo:wikipedia)

これは現役時代、保守党党首(1975年 - 1990年)から
首相在任(1979年 - 1990年)までと引退後のストリーですが、
どんなに偉く強くても加齢と共に認知症になっていくさまは現実的でした。

サッチャー引退後.jpg
↑引退後(photo:The Margaret Thatcher Foundation)

その中で夫デニス・サッチャーがいつも彼女のそばにいました。
彼女の強さを発揮できたのは、ひとえにこの夫の支えだったことを示唆しています。

彼女は若いときから極めて主体的に生きてきました。
「家事だけでなく、もっと大事なことがある。
食器を洗うだけで一生を終るような女にはなりたくないの」。
この強さがデニスの支えも得てがんばれたのでしょうか・・・。

冒頭の医者との会話に
私は自分のことを言われているような気がしました。

「私はこう感じる」のではなく
「私はこう考える」といつも言えるほど生き方をしてきたとはいえませんが、
こうありたいと願う気持ちを代弁してくれたことは確か。

正月、
何気なく観た伝記映画でしたが、少し背筋がピントなりました。


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年の始めは「小吉」から

2016年、今年もよろしくお願いいたします。

恒例のお正月「おみくじ」行脚。

地元の小さな神社では「吉」と出て
となりのお寺では「大吉」と。
翌日都心の日枝神社では「小吉」でした。


1日は朝早く地元の神社に参拝。
お天気が良かったこともあり、近隣の人たちでにぎわっていました。
七郷神社1.jpg

初祈願は、
家族が健康であること、義父母(91,90歳)と実姉(80歳)が
施設で穏やかな日々が過ごせるようお願いしました。

そこでのおみくじは、「吉」.
まぁ,こんなもんでいいのでは、とたたんで木枝に。

神社の隣にあるお寺では、
連れといっしょにお線香の煙を、
まず頭に(痴呆が緩やかであるように)、
頭に(これ以上薄くなりませんように)、
そして、
顔に(しわやシミが増えませんように)。

加えて、
ノドに(食道ガンが進行しませんように)、
お腹に(これ以上ウエストが太くなりませんように)、
膝・足に(そこそこの歳まで歩けますように)・・・・といっぱい。
西光院2016.jpg

2日も早めに赤坂・日枝神社に向かいます。
都心の赤坂方面へは、この正月参拝だけになりましたね。
現役のころは、
赤坂、六本木あたりを遅くまで徘徊?しておりましたが・・・・
(30年前の話です)。

1年ぶりにまいりますとにぎわう時間が早くなってきた感じです。
それに外国人の観光客も非常に多い。
エスカレータに人の切れ目が見えません。
2016日枝神社3.jpg

案の定、境内はこの人、人、人。
2016日枝神社2.jpg

周辺ビルも朝日でキラキラと輝いていました。
2016日枝神社5.jpg

30分ほど長い行列をつくってようやく神殿そばへ。
2016日枝神社6.jpg

昨日地元の神社でお願いしたことを同じようにお願いしました。

そしておみくじへ。
折り返し3列の行列に並んで引いたのは・・・
2016日枝神社1.jpg
「小吉」でありました。

個人的には激動の年になるよりは
穏やかで,
それでいながら小気味よい緊張感もときどきあるような年であって欲しいと思います。

参拝のあと上野に向かうため赤坂見附駅方面に向かっていたら
超高層ビルの足下で餅をついていました(そば屋のサービスのようです)。
2016日枝神社8.jpg

そういえば、
子どもの頃、杵と臼があって家でも餅つきをしていました。
三臼もついて母が伸し餅をつくっていましたね。
おろし餅も子供にはちょっと辛いけど美味しかった記憶があります。

久しぶりに上野・国立博物館へ。
2016国立博物館1.jpg
2016国立博物館2.jpg


連れが新聞で「博物館に初もうで」というイベント案内を見たからです。
館内には春を感じさせるディスプレイや今年の干支・申の美術品がづらリ。
2016国立博物館3.jpg
2016国立博物館4.jpg

私はそれも良かったけど12支の彫り物に引かれました。
2016国立博物館5.jpg

急ぎ足の見学でしたが、
通常展示の入館料が70歳から無料になるとのポスターに足を止めました。
そうなんです、この5月から私は古希、70歳を迎えます。
「ええっ、70歳って誰のこと~!」といいたいのですが、
これだけは、
命に終わりがあるように、みんなにやってくる定め。

いまの週2日の仕事もそろそろ店じまいを意識して
だんだんと身の回りを整理するつもりなんですが、
たまにはこうした知識の刺激も必要かな、と
いかにも「小吉」らしい?落としどころで今年も暮らしたいと思います。

みなさまにとっても
今年が充実したいい年でありますように。


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兄からどっさり・・・・

先日次兄(74歳)より、宅配便が届きました。
開けて見ると、
兄からのプレゼント1.jpg
手づくりの付箋、メモ帳がこんなにもどっさり、と!

7年来の趣味で始めた「装丁」の作品?です。
兄からのプレゼント2.jpg

付箋やメモ帳、小型のノートなどがてんこ盛り。

兄は作ったものを友人達に配っていたようですが、
それでもたくさんため込んで
在庫?に悩んでいましたので、私が引き受けました。

以前少しいただいたものを連れに渡したところ大好評で、
娘や息子の嫁さん達にも
おすそ分けしたものですから、販路?には自信がありました。

メールでOKを出しましたら
次の日にはご覧のような段ボール箱入りで到着。
連れと私はテープを剥がして、
思わず、すご~い、と歓声を上げてしまいました。

兄は、元々手が器用ですし、センスもあって、
かつやり始めるととことん極める?性格だからこそできたのでしょう
(ゼネコン現役時代ダム屋でしたが、
ダム堤頂の手摺りの赤色にこだわったという逸話もありました)。

さて、
送って貰った数々の付箋は、家族用と自分用とに分けました。

私が手にした可愛いものは、
会社の女性社員さんに手渡しし、
和風のものを選んでリバプール在住のSさん(英国人)に送りました。
これもCool Japan!のひとつとしてアピールできるかも。

これはリバプールへ送った
EMS(Express Mail Service=国際スピード郵便)の控え伝票。
約1kgの小包ですが、
英国へはなんと3日で到着するとか・・・。
EMS控え伝票-20151221.jpg

この話をしたら、
兄も自作の付箋が海を渡りリバプールまで届くわけですから、
またまた、創作意欲がわいてくるかも知れませんね。

よかったか?、悪かったか、な?


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痛~い注射

この半月ほど、
右手中指の関節が痛い状態が続いています。
夜中に第2関節が曲がった状態で、指を伸ばすことが出来ません。

「ウッ、またもや”ばね指”再発か・・・」

朝起きがけに、
痛みを堪えて一生懸命上から押さえつけるよう伸ばします。

こんなことが2,3回続いたので、
意を決し地元の整形外科クリニックにまいりました。

ばね指については10年近くも前から発症し
ブログにもいろいろアップしています。

最初の症状
http://chizunoko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-04
http://chizunoko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-07
http://chizunoko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-10
http://chizunoko.blog.so-net.ne.jp/2007-04-14

2回目の症状
http://chizunoko.blog.so-net.ne.jp/2011-06-12

3回目の症状
http://chizunoko.blog.so-net.ne.jp/2014-11-24

という病歴で、
またか、という思いがいたします。

最初は2007年で左手中指、
4年後には左手人差し指がどうにもならなくなり手術。
下の写真は、左手のその傷跡です。

2箇所.jpg

ちょうど1年前、
今度は右手中指付け根が同じ症状になりましたが
手術に至ることにならず、注射で緩和させました。

そして今回。

「大事に至りませぬように!」と念じながら
近くの整形外科クリニックにまいりました。

先生は、中指を手に取り曲げたり伸ばしたり・・・・。
これが結構痛いんです。

「だいぶ間が空いているから、注射にしましょう、いいですね?」

実は、この注射(ステロイド系)は実に痛いのです。
前回は1年前でしたが、その痛みの残像?はくっきりと・・・。

それでもやって貰わなければ
いまの症状は良くならないわけですから、
即答で「お願いいたします。」と。

中指の根元のくりくりしている部分に注射されるのですが
すぐには終わりません。
注射液そのものが、少しとろみ?があるようです。
射した瞬間はいいのですが、
じっくり液を押し出しながら、抜いては別の箇所、
また刺したまま針を斜めにしたり左右に振ったりと・・・・。
69にしてマジ脂汗が出てまいります。

時間にして5分前後でしょうか、ようやく終わりました。

migite.jpg

指を使い過ぎるから、
とよく言われますが右手はわかりますが、
最初は左手でしたし、ブラインドタッチをしているわけでもない。
病因は本当に?です。
今回は右手の中指第2回目、これはもう慢性的なものかも知れませんね。

ともあれ、
あの注射のときには麻酔注射?が本当に欲しい気分です。

実に1年ぶりの強烈な超痛~い注射でした。
もうやりたくないなぁ・・・・。

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私の「The Beatles +1」の楽しみ方

先日、
「The Beatles +1」(DVD2+CD版)を手に入れました。

ビートルズ1-5.jpg

お好きな方には、
涙が出るほど、感激する映像満載?のアルバムですが、
私、この映像を楽しみながら、
実はジーンとして目を潤ませております・・・・。

ビートルズ1-2.jpg

なぜか?

それはミュージアムで
毎日各ゾーンで流れていた映像と曲が鮮明に蘇るからです。
ミュージアムの内容は当然ジョンが主人公。
生誕からからの様子が
さまざまな資料と数々の映像で紹介されていました。

ビートルズ1-3.jpg

ミュージアムのゾーン2には、
初めてジョンが通販で手にした
ギャロトーン・チャンピオンのギター(同時代・同型モデル)が
展示されていました。
「クオリーメン」として
ポールと出会った地元セント・ピーターズ教会で演奏したときも
このギターだったと記憶しています。

「The Beatles +1」で
ジョンの顔がアップになる各曲のシーンでは、
15.6歳の頃のジョンとギターを思い出してしまいます。
このギターのあと、いわゆるエレキギターへと発展していきます。
確かハンブルグでの演奏は、「リッケンバッカー325メイプルグロウ」で
これはゾーン2に展示しておりました。

ビートルズ1-4.jpg

次から次へとミュージアムの思い出が蘇ります。

ゾーン3中央には、
ジョンのシンボルであった「リッケンバッカー325ジェットグロウ」。
ギターの側面に演奏曲の小さなメモが貼られたままでした。
ご来館のファンはそれを食い入るようにご覧になっていました。

人は誰しも歳を重ねて行きます。

私はミュージアムを通じて
彼の幼少期から少年時代を教えてもらいました。
ニューヨークのシェイ・スタジアムで
数万人を前にしたあのジョンの映像を観ますと
ついついメジャーデビューする前の
彼らのエピソードと姿を思い出してしまいます。

コンサイート映像で
フェンスにしがみついている若い女性ファン達は
2015年現在、みんな私と同い年の70前後でしょうね。
このアルバムを買ったアメリカのファンの中には
興奮して大声を出したり、失神した自分の姿を見るかも・・・。

あの演奏は1965年(私が高校を卒業した年)ですから
今年でちょうど半世紀ということになります。

その年から15年後の1980年12月8日に
ジョンはニューヨーク・ダコタハウス前で撃たれて
その40年の生涯を終えます。

それを歴史の一コマと知っていますので、
なおのこと「The Beatles +1」の映像のすべての見方が
特別な感じになってしまいます・・・。

昨日、
3日かかった2枚のDVD映像を見終わりました。

そのうちに第2回目を楽しむつもりですが、
またまた
ミュージアムの思い出とジョンの姿を重ね合わせるのでしょうね。

4人組が来日したのは
1966(昭和41)年6月29日、私が19歳の時でした。
DVDの映像を見ながら、
私も歳を取ったなぁ、と改めて感じています。

いろいろ思い出させてくれるいいアルバムに出会いました。



 



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最近読んだ本雑感

私の読書、
特に決まった傾向はなく
フィーリングで活字を追ってしまいます。

この半月で読んだ本は、
最近読み終えた本.jpg

オノ・ヨーコさんの詩集
「どんぐり」の翻訳者は越膳こずえさんで、
彼女とは
ミュージアム時代から、かれこれ10年以上のお付き合いがあります。

帰国されたときには連絡を取り合いデート?も。
小柄な彼女のコミュニケーションスキルは抜群で
私の苦手な英語を瞬時に日本語にしてくれるおかげで
リバプールでも丁々発止に仕事ができました。

ヨーコさんの感性にはいまだに驚かされます。
繊細で大胆で新鮮で・・・・、賛辞の言葉が止まりませんが
生の彼女を多少存じ上げているので、ちょっと別の思いも。

「日経PC21 12月号」は
我が家のPCのWindows10へのアップグレードのために買ったもの。
同誌は1996(平成8)年3月創刊以来の愛読者で、
私のPCスキルは
2006年休刊となった「アサヒパソコン」とこの雑誌から教えて貰いました。

今年の7月、
Windows10の無償アップグレード告知は気にしていました。
でも、半年待とう、というこだわり?から
この11月初旬、ようやくサブ機(ドスパラ改造)から試行し、
つい1週間前にメイン機(EPSON MR6900)をついにアップグレード。
いまは多少の違和感はあるも、
使い勝手をwindows7風に残して何とか使い始めています。

「月刊文藝春秋」の購読歴を遡ると
なんと入社した頃からですから、46年近くになりますか・・・・。
総合雑誌と言われるジャンルでは
やはり内容も歴史も同誌に追随するモノはないでしょうね。
その時折りの話題もあり、飽きずに読めます。
時折物議をかもし出すタイトル、執筆者もいますが、
いつも刺激と知識を与えてくれる雑誌です。

かつては
同社の週刊誌の広告スポンサーとして
コラム連載もいたしておりましたので、偉い方ともお付き合いがありました。
いまは昔の物語です。

(毎号真っ先に読むのは、一番後ろ頁の「編集後記}です。
ほんとかいな?と思えることも、あの編集部なら、と理解してしまいます)

文庫本は、2冊。
ひとつは、「天空の鉢」(東野 圭吾 講談社文庫)です。
これが20年前に書かれたということに驚きました。

稼働中の原子力発電所の真上で
無人の大型ヘリが全国の原発を止めるため国を脅すとは・・・。
福島の事故を私たちは知っていますので、現実味を帯びます。
3日で読み終えてしまいました。

もう1冊は、「秘太刀馬の骨」(藤沢周平 文春文庫)。
藤沢のシリーズは半分以上読んでいましたが、これは初めてでした。

背景の東北小藩が舞台ですが、
春に東北を旅したこともあり、その情景が何となくわかりますので
登場人物達の会話(地元の言葉)も身近に思えます。
藩士たちの仕事も、
藩を会社に例えれば何となくご同輩?と呼べそう・・・。

これと同時に読んでいたのが、
「旗本・御家人の就職事情」(山本英貴 吉川弘文館)です。

江戸時代、将軍直属であった旗本や御家人の
地位や就職状況を資料から読み解いたものですが、
結構現代の就職事情につながるものがあって面白かったです。

余剰人員対策に悩む幕府、
リストラしながらも武士達のモチベーションの低下を防ぐ仕組みづくりなど、
江戸時代の幕府直属のエリートや武士達の
就職や昇進のありさまがわかりました。

なんだ、現代の官庁や会社と同じだったんだなぁ~、と
妙に納得させられた本でした。
これを読むと
江戸時代をテーマにした小説やドラマも理解が増します。

しかし、
俗にいう学者先生は文献・資料からよく調べられますね。

本の値段が1,600円というのがやや難点。
数万部も売れ、重版重ねるというジャンルじゃないので
仕方ないのですが・・・・。


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おい、オイ、老い、お前は誰だ?

我が家の最近の話題の7割は「介護」、2割が「孫」。
そして、残りが、私と連れのこと。

介護保険証を受け取ったのは4年半前。
その時は、「何なの、これ?」とマジと驚きました。
65歳以上、
と言うのは他人事みたいに感じていたからでした。

あれから・・・。

田舎に住む姉(80)は、認知症で施設に、。
義父母は介護度が上がり、義父は夏の終わり頃から施設へ。
かく言う私は、(たぶん)軽度のもの忘れ頻発、
それに睡眠は浅くなり、夜中に幾度も起きるなど、
ヒタヒタと「老い」が迫ってまいります。

先日朝ニュースを見ていたら
80歳の女性が介護士として
90過ぎの男性宅で仕事をしている様子が紹介されていました。
思わず「すごいなぁ~・・・」。
また「体育の日」のニュースでは、
101歳のスイマーや103歳陸上のアスリートが・・・・。

かくも個人差が出てくのは、どうしてなのでしょう?

先日のNHK「ためしてガッテン」では
「長寿ホルモン」についての興味深い内容で、連れと一緒に観ましたが、
人によってホルモン量が違い、
それの分泌促進法も解説していました。

老化の個人差は、
持って生まれた遺伝子と生活習慣、
そして意識して維持する好奇心、向学心、その他もろもろ・・・・。

それでもこれからの予測はつかず、
私の場合はどうなるのか?
いきなりその日が来るわけではないのでしょうが、
果たして徐々に老いを自覚するのでしょうか?
もちろん、
身体の固さや体力・気力の衰えは、日々感じておりますが・・・・。

「おい、オイ、老い、お前は誰だ?」と
鏡に写る自分の顔を見ながら呼びかける私がおりました。

ある日のこと、
義父のための車いす探しをしていた連れが、
「ねぇ、カタログのこのタイプ、12万円もするのよ。
何でこんなに高いんだろう?」

私「使う人のいろいろな症状に合わせたりするから
数でコストダウンは出来にくいのだろうねぇ・・・。」

連れ「そのうち3人に一人は65歳以上の高齢者になるのに・・・。
これからも需要はあると思うんだけど・・・。」

私「同じタイプをネットで調べて見ようか?」。
こうして調べたそのタイプのネット価格は、連れが見た価格の1/2でした。

このところ、
NHKスペシャル「認知症」シリーズを
連れと二人で見ている私。

オイ、おい、老い・・・

私にも
やがて来るその日をお題にした歌でも創れそう~。

先のことを考えるとちょっと気が滅入るので
最近手にした「The Beatles+1」の
DVDとCDを楽しんでいます。

半世紀前のことながら
彼らのプロモーションスキルに改めて感動しまくっています。
本当にうまいなぁ~。
ビートルズ1-5.jpg







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「熱海の海岸~♫ 散歩する~♪」の熱海へ  その2

その1の続きです。

到着日の夕食はバイキング、翌日の朝食も同じスタイルです。
これは、いろいろ食べられるというコストパフォーマンスがいいからと、
もうお酒が飲めないカラダになってしまったので、
酒の肴も楽しめない・・・・。
せっかく別世界?に来たのに、どうも消極的な姿勢です。

和洋楽しめるバイキングですと
食に元々こだわりのない私は、ついついコンセプトも失せ、
結局朝食はこんな感じに。
Hotel2.jpg

連れいわく
「他人(ひと)の段取りで、こうして食事できるのはいいわねぇ~。
洗わないで済むし・・・。」
おっしゃる通りでありました。

9時半にチェックアウトして
朝起きてから、帰るまでなにをしようかと相談した結果、
連れが行ってみたいという初島へ。
ほかに吸引力のある観光場所もありませんでしたので
ホテルのカウンターで割引クーポンを買い、熱海港からの乗船しました。
これは下船した初島港。
初島1.jpg

島の大部分は
会員制の「初島リゾートアイランド」というリゾート施設で
私たちのようなビジターにとってはそう魅力のある場所ではなかったです。

島にはダイビングスクールがありまして、
熱海港からは結構な数の若者たちが毎便乗船してきます。
初島3.jpg

海沿いの遊歩道を少し歩いて
(ややかけ声倒れの)亜熱帯植物公園を散策。
初島2.jpg

島滞在時間2時間でまた熱海へ戻ってまいりました。

昼食後、
電車の時間まで時間があるので熱海駅前の繁華街を歩きます。
熱海アーケード街.jpg

とある老舗の和菓子屋さんで抹茶とお菓子のセットを。
いかにも手作り感あふれるメニューがよかったですよ。
熱海駅前3.jpg
和菓子屋Menu.jpg
熱海駅前4.jpg

熱海駅の横で元いた会社が工事をしていましたので、
ついついゲートの前にいた作業員の方に声をかけてしまいました。

私「なにができるんですか?」

彼「平置の駐車場です。新しい駅ビルの施設です。」

そういえばバスロータリ前で駅舎の改築をやっていました。

私「熱海は狭いから、残土の搬出も大変ですね。」

彼「・・・・・」

私「すいません。OBなものだから、ついつい声をかけちゃって。
  安全第一でお願いしますね。」

彼「・・・・・」

建設現場を見ると
長いこと建設に携わっていたので、ついつい見とれてしまう私。
連れは、あきれ顔で私を眺めておりました。

急に決まった小旅行でしたが
熱海は若い観光客が意外に多いという新発見もありました。

(終わり)


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「熱海の海岸~♫ 散歩する~♪ 」の熱海へ  その1

先日、
2階の部屋でメールチェックしていましたら
連れが上がってまいりまして、
「ねぇ、週末休みだったわよね(私、土曜日もたまに出勤あり)
熱海に行きたいと思うんだけど、どう?」

「ええぇ~っ、・・・」

「隣がね、熱海のTホテルがいいって言うのよ、安いし・・・。」
会員制のホテルなんて、めったに行けるところではありません。
何か私たちとは、お客さんは何か雰囲気が違う感じもします。

私、特段予定がなければ、
ほとんど連れに対しては、「Yes」しか言葉を持ち合わせておりませんので、
もちろん「了解」となりました。

以下、「牛に引かれて・・・」の旅日記。

熱海というと
最初に想起されるのは、タイトルの歌。
やはり歳を重ねているせいでしょうか、
尾崎紅葉の小説「金色夜叉」の内容よりも、歌が先に出てきます。

「熱海の海岸~♫ 散歩する~♪
寛一 お宮の二人連れ~♫・・・」

熱海駅着13時過ぎ。
ホテルは2時以降のチェックインゆえ、さぁ、どこへ行く?
私にしては、めずらしく計画を立てない旅行です。
何せ、その評判のホテルに泊まるのが目的でしたので・・・・。

で、
数十年ぶりにMOA美術館にまいりました。
前回はいつ頃だったのか、
連れとも話をしたのですが確かな数字が思い出せません。
二人だったのか子供達がいたのかすらも思い出せません。
加齢なる記憶・・・・・。

「伝統工芸の現在性」というテーマの企画展が開催中でしたが
私は、展示品より、建築の方に興味がありました。

長いエスカレータが有名です。
天井・壁面の照明がゆっくりと変化するのを楽しめました。
MOA-エスカレータ.jpg

エスカレータの終点には巨大なドームが・・・。
MOA ドーム.jpg

美術館ゆえ展示品は撮影禁止。
展示室を出たロビーはOKでした。
MOA1.jpg

見学後エントランスの前でパチリ。
MOA 入り口前.jpg

3日前に申し込んだので、
空いている部屋は南館の1階というそうよくない棟にありましたが
ホテルライフを楽しめるような私たちではありませんので、
十分すぎるお部屋でした。

これはホテルの模型。
私たちの部屋は、左下の棟の真ん中でした。
Hotel模型.jpg

大浴場までかなり複雑な館内経路ゆえ、
今回はわずか1回しか利用できませんでした。残念~!

続く





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今度は3泊したい・・・

1ヶ月ぶりに娘と孫達がやって来ました。

娘は仕事をしているので、
金曜日に仕事を終えてから子供を連れてくる予定でしたが、
下の子供が熱を出して、とうとう翌日土曜の昼過ぎに。
駅まで迎えに行きましたが、
熱は下がったもののまだ本調子ではないようです。

それでも娘も孫たちも
実家でマイペースでくつろげるので気分はいいみたい。
家の前でスケーターやかけっこで身体を動かし楽しんでいます。
下の孫は、わがまま言って叱られ、すねて和室でふて寝。
家の前で.jpg
かけっこ1.jpg

遊んでいる間、
ふて寝の孫をの様子を見に行ったら.相変わらず布団をかぶったまま。
私も子どもの頃、こんなことがありましたね。
田舎の言葉で「えぼをつる」って言ったような態度です。

「ジジとお2階でパソコンしようか?」と声をかけたら、
ガバッと起き上がり、さっさと階段を上がっていきます。

「なにやる?」

「YouTubeで、アンパンマンのおもちゃ!」

下の孫の定番です。
まだマウスとキーボードを操れませんので
ジジが彼女の言うまま検索サイトで操作します。
キーワードは3つ、「YouTube アンパンマン おもちゃ」。
エンターキーを押していろいろ画面が出ると、
「これ、これ、いやもっと下」などとの指示があります。 

それが終わり居間に降りてからは、娘とレゴ。
居間で2.jpg

上の孫は、プラレールを楽しみます。
居間で.jpg

娘は連れとぺちゃくちゃおしゃべり。

これで娘たちは我が家で家族みんなくつろげるのでしょう。
(ダンナはパン屋の営業マンゆえ、土曜でも仕事です。)

おやつのHäagen-Dazsのアイスクリームは
私もお相伴になりました。久しぶりゆえ、超!うま~い!

夕食後、孫と風呂に入り、
寝るときには、日替わりのお話を読み聞かせ、
一緒にたわいもない話を眠るまで・・・・。

こうした体験からでしょうか、
上の孫が翌朝(日曜)起きてきたときに最初に発した言葉。

「今度は3泊したい・・・・。」

当初の2泊の予定が
下の孫の発熱で1泊になってしまったことを感じて言ったのでしょう。

「へぇ~、3泊なんて言葉知っているんだ・・・」と私。

旦那が迎えに来て、昼ご飯を食べ、そして帰るとき
車に乗り込む直前にまた同じことを言いました。

「今度は3泊したい・・・・。」

ジジババの家に来ると
すてきなワンダーランドに来たって感じているのでしょうか?
孫だけでなく、娘もそれ以上に感じるのでしょうね。

帰ったあとは、ジジババはしばし虚脱状態に。
私:「1泊でもこうなんだから、3泊になったら大変だよね」と言いますと
連れ:「・・・・・、前なんか1週間もいたじゃない・・・・」

来ると うるさい(小さいときは、お昼寝タイムがあったけど)、
帰ると さみしい・・・。

みなさん、大変お疲れさまでした。



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高校卒業50周年の会で、ふるさと高田へ その4(終)

私が1次会終宴の挨拶を頼まれたことは、以前書きました(その1)。

首都圏在住の同級会まとめ役を仰せつかっているので、
引き受けたのですが、3,4分で話をするのは難しかったです。
平田氏からの写真2web.jpg

原稿はキーワードだけメモして、
ポケットに入れていましたが、使うことはありませんでした。

要旨はこんな感じだったと思います。

「90人もの同級生とこうして楽しく時間を過ごすことができ、
幹事のみなさま、ありがとうございました。
また私たちのために先生方もご出席いただき、感謝しております。

私は69年生きてきて
この高校生活の3年間は、本当に濃縮されている時間であったと
改めて感じました。
体操部での思い出だけが大きなウエイトを占めていますが、
苦手の数学・英語も、みなさん方と一緒に授業を受けていたことも思い出せました。

これから何年元気で暮らせるかわかりませんが、
この3年間のことは決して忘れません。
この気持ちも支えにして、元気に生きて行こうと思います。
ありがとうございました・・・・。」

概ね好評でした。

翌日、長兄が我がM家の墓があるお寺に連れて行ってくれました。
私にとっては今年2回目の墓参です。
若水会 墓参り.jpg

ここには父と母が眠っています。
心の中でつぶやきました。
「父ちゃん、母ちゃん、
私もずいぶん大きくなって、69歳になってしまいました。
2人の子供達にも子供ができ、いまや3人の孫のジジさまです。

あなたたちのおかげでいまの自分があり、家族がいます。
それをまた紡いで
次世代にバトンを渡す、これが私の人生での役割だと知りました・・・・・・・・・。」

この50周年の会のおかげで、
3年間、同じ時間を過ごした同級生に会えました。
1学年380人もいたのですから
名前と顔が一致しない方々も数多かった・・・・・・・・。
それはそれとして、
もう会えない人もいるのでしょうね。

前回の40周年と違う気持ちになったのは、
共通してやはり残された時間の無さからでしょうか?

帰京してますます毎日の大切さを感じているところです・

終わり
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高校卒業50周年の会で、ふるさと高田へ その3

ここが老舗「宇喜世」。
若水会-宇喜世1.jpg

若水会の会長、鋼材屋のSさんの挨拶から始まりました。
若水会-宇喜世2jpg.jpg

各テーブルは受付の際くじ引きで決められるので、
席に着いたとき横、向がだれかがわかりません。

幸いなことに
元体操部のNさん(Yゴム会長)、東京の会でのWさん、
横は、十年ぶりのHさんなど知った方ばかり。
となりもテーブルもワイワイと大にぎわい。
若水会-宇喜世4.jpg

校歌斉唱が始まりました。
若水会-宇喜世3.jpg

クラスごとの写真撮影は
みんな酔っているせいもあり、なかなかまとまりません。
若水会-宇喜世5.jpg


元応援団長のSさんが応援歌の指揮を執ります。
若水会-宇喜世6.jpg

とにかく会場内は、おしゃべりが渦巻く異常な?世界。
3時間後ようやくお開きとなりましたが、
続いて別のふたつの座敷で2次会。

部屋ごとに元女生徒?の奪い合いとなり、
私がいた部屋は女子が多く、
ほかの部屋からも合同して、華やかな宴となっていきます。

しかし、私はなぜか話の中には入れませんでした。
高校時代から女子は苦手であったこと、
それに勉強が出来るグループにはついつい遠慮してしまう・・・。
50年経ってもこれだけは直りません。

積極的に女子の所へ行くのは、
昔からそういうのが好きな男子生徒が多い気がしました。

私は途中で退席しましたが
翌日聞いた話では、
3次会4次会と12時過ぎまで土曜の夜の街を飲み歩いたとか・・・。
いやはやすごい老人?パワーです。

10時過ぎ、昔の繁華街(飲み屋街)を通り、
元商売をやっていたところまで歩きました。
もう何十年も経っているのですが、家屋がこわされたあとは空き地(駐車場)のまま。
若水会 敷島湯跡.jpg

お馬出のたもとにあった、「敷島湯」。
これが私が小さいときから育った風呂屋の屋号でした。
木曜日が定休日で、
向かいは紙封筒をつくる店、隣はせんべい屋・・・。
いろいろな思い出が蘇ります。

兄の家まで20分歩いたのですが
商店街はみなシャッターを下ろし、真っ暗です。
人影はわずか2人と自転車1台だけ。
寂れた田舎町、という表現しか浮かびませんでしたが
とてもさみしい気分でした。

続く

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高校卒業50周年の会で、ふるさと高田へ その2

「上越妙高駅」着10:18。
長兄(78歳)が車で迎えに来て改札口で待っていてくれました。
ありがたいことです。

長兄宅で一休みした後、グループCの集合場所、「榊神社」へ。
今回の50周年の地元幹事団は、
Aコース「ゴルフ」、
Bコース「ハイキング」、
Cコース「高田城址公園と母校見学」
の3つのコースを準備していてくれて、
私は「高田城址公園と母校見学」を選択しました。

30分も前に到着しましたが、
境内には同級生らしい姿が見えます。
ほとんどが69歳ゆえ、外見上はおジジさまとおババさま。

「Mです。こんにちは」、
「あらM君、久しぶりね」と同級生の女性。
今日はみんな「M」か「M君」という呼称になります。

やがて続々と集まり、
「高田城址公園と母校見学」組は、約20名余。
外見では、中高年というよりは高齢者の団体ツアーの様相です。
若水会 榊神社1.jpg

若水会 榊神社2.jpg

在学中の数学のI先生が、
神社団体の責任者ですのでまずオリエンテーション。
若水会 榊神社3.jpg

80歳を超えられていますがお元気で、
うれしいことにもう一人美術のM先生もご一緒です。
このM先生の授業は、息がつまりそうな受験勉強時代、
いっぷくの清涼感のような時間でした。
天気がよければ、城址公園に写生に出かけ、
私たちは、もちろん絵は描きますが、
大の字になって青い空と白い雲を眺める時もありました。

※先生が東京で個展を開かれたとき、
小さな号数の絵を買い求め、いまも我が家の階段踊り場の壁に飾っています。

さて、みんなで高田城址の三重櫓へ向かいます。
若水会-高田城3重櫓.jpg

昨年が高田城開府400年でいろいろ記念行事があったようです。
高田城は、
1614(慶長19)年の完成で、徳川家康の六男、松平忠輝のお城です。
天下普請の総指揮は、伊達政宗(忠輝の娘いろは姫の義父)で
以前ブログにもアップしましたが、工期4ヶ月の超突貫工事でした。

城址公園を散策した後(I先生の解説付き)、
母校新潟県立高田高校校舎へ向かいました。
もちろん、徒歩です(10分)。

校長。教頭(みな私たちの後輩)が出迎えて下さいまして、
教室でパンフレットをいただき、概要説明を受けました。
若水会 高田高校1.jpg

校舎は7年前に建て替えられましたので
私たちのころの思い出はまるで残っていません。
わずかに古い講堂に掲げられていた「第一義」の額と
野球部の廃屋?のような部室だけ・・・、さみしかったです。
ちなみに「第一義」とは、校是で武将・上杉謙信の言葉です。
「信義」を大事にする気風は,ほんの少しだけ私にも・・・・。
若水会 高田高校3.jpg

2年生の教室に入らせていただき、スナップ写真を撮りました。
あっというまに50年前に戻れました。
若水会 高田高校2.jpg

私は成績さっぱりで、
3年間の決算?は体操(徒手体操)しかありません。
教室での勉強の思い出は、
M先生という独身の英語の先生に、黒板の前によく立たされた・・・、
授業中は居眠りばかり(と同級生の女子は言っておりました)、
そんなくらいで、極めて希薄です。

普通教室だけでなく
音楽室やIT関連教室、化学実験室など見て回ります。
土曜日の午後でも勉強している生徒たちが結構な人数いました。
若水会 高田高校6.jpg

プールが屋上にあったのは驚きました。
私たちのとき(半世紀前)は、浄化装置もなく、
いろいろな生物が泳ぎまくっていまして、入りたくなかった・・・・。
若水会 高田高校5.jpg

遠くには南葉山が見え、
左奥にはかすかに上越地方のシンボル、妙高山が確認できました。

約1時間の見学が終わりました。
教職員用の玄関前には、
江戸時代末期から続く料亭「宇喜世」のバスが待ち構えておりました。

「その3」へ続く



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高校卒業50周年の会で、ふるさと高田へ その1

先日、
高校時代、バレー部のキャプテンをやり
進学後体育の先生になったNさんより電話がありました。

今週末に開催予定の、
高校卒業50周年の会で、「締め」の挨拶をお願いしたい、とのこと。
私が首都圏在住の同級生をまとめているので
私の役目だから、と言います。

人前でしゃべるのは
嫌いではありませんので、ついつい二つ返事で引き受けてしまいました。
でも、どう話すか・・・。

私たちは、
1965(昭和40)年3月に高校を卒業しました。
前年10月が「東京オリンピック」。
その影響で、毎年秋開催の「国体」が変則的に6月開催となりました。
会場は,新潟市ほかで
私は「団体徒手体操」で出場、優勝しましたが、
閉幕後まもなく新潟大地震発生(1964年6月16日)。
試合会場だった新潟市体育館は、不同沈下を起こしその後解体されています。

話が飛んでしまいました(軌道修正)。

さて、
心に残る言葉をどう創るか、これから考えねばなりません。
お開きの時間ゆえ、みんな酔っている・・・・。
私は飲めなくなっているので、しらふです。

みんな酔っていても
何か残る言葉にしたいけど、これをどうまとめるか、です。
別に挨拶文にして読み上げるわけではなく、
私のいつものやり方は、
キーワードだけ覚えて、あとは成り行き・・・・、だから同じ事が言えません。
この2,3日考えているんですが、決め手の言葉が見つかりません

この写真はクラス別の卒業写真。私は5組でした。
この年、男子が6クラス、女子が2クラスでしたが、
2年までは共学なのですが、3年になると分けられた・・・・。

8クラスあったわけですから
同級生は約360人くらいいた計算になりますね。

5組.jpg

そして、これが50年前の私。
マジメそうですね。

5組 私.jpg

校庭で撮っていますので、まだ雪がありませんから
晩秋、たぶん11月ごろでしょうか?
ということは、受験勉強まっ盛りですから、私も含め皆の顔に笑みはありません。

今回この1965(昭和40)年3月卒業の同級生が
田舎に約90人近く集まるとのこと。
名前と顔が一致するのは、
ときどき首都圏に住む同級会に集まる人くらいで、
あとは同じ町内とか運動部仲間とか、
それ以外に、超!優秀な方くらいですね。
女子に至っては、高校時代からまったく無縁だったこともあり
お顔は何となく存じ上げていても、
名前とが一致しないのでほとんど覚えていない状態です。

当日、どうしよう~?

無口な私のままで時間を過ごせるのか?
いえいえ、やっぱり何かしゃべっていることでしょう。

♪ Let it be ♫ でも歌いながら楽しむしかないですね。

(続く)





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♫ Simon says ♪を思い出して

リバプールの友人Sさんからメールが届きました。
彼の名前を見ると、
ついつい1960年代、「1910 Fruitgum Company 」というグループの曲を
思い出してしまいます。

私がネットにアップした記事を
彼が単語と画像でヒットさせてのでしょうか、
思いがけなく「読んだよ、見たよ」との反応が今朝。

いやはや驚きました。
だって私は日本語だけでしか書いていませんのにね。

何かそういう「技」があるのでしょうか?
そういえば以前、著作権を厳しく管理するために
内外の弁護士事務所が
世界中の情報の中から許諾を与えていいるものと
そうでないものをチェックしていると聞いたことがあります。

さて、
難しい話はさておき、
Sさんが添付で送ってくれたのは2歳になる孫の写真です。
2,3年前結婚された息子さんの第一子。
直後の写真もいただいておりましたので、その成長ぶりに驚きました
(返信で、うちの孫たちの写真も送りましたけど=日英孫自慢)。

From-Simon-20151012.jpg

仕事で知りあったSさんとの交流も11年目。
行くたびにいろいろお世話になりました。
ご自宅にもお招きいただいて食事をごちそうになったり、
うちの孫へのプレゼントをいただいたり・・・。

彼が仕事で日本に来れば、
私が行きつけのライブハウスへ連れて行ったり、
あるときには、日帰りでしたが一緒に京都旅行も・・・・。

単語+please程度のチープな私の英語力でも
何だか気持ちだけは通じ合っていて、気持ちがいい・・・。

そう頻繁にやり取りするわけではありませんが
お互い元気でいることと孫自慢ができる幸せを感じています。

ああ、またリバプールへ行きたくなっちゃった・・・・。




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ジョンのお誕生日に

10月9日、ジョンの75回目のお誕生日。
私はとある小さな町の
コミュニティセンター(公民館?)で8人の方々に向かって
おしゃべりをしていました。

自主講座3.jpg
テーマは「ジョンとリバプール」。
リバプールの案内と
ジョンの幼少期のころのエピソードが主な内容です。

ご依頼を受けたのは1ヶ月半前の頃。
もうミュージアムをたたんでから5年の月日が流れていましたが、
「せわぁ~ない・・」(大河ドラマ「花燃ゆ」によく出てくる言葉)と
気軽にお引き受けしました。

それからが大変。
まだ整理の付いていない資料や
私が撮った写真などを引っ張りだし、
決められた90分以内にお話をまとめねばなりません。

現役時代なら、なんなくこなせましたのに、
あれも話そう,
この写真もお目にかけたいと欲が出て
なんと前日までパワーポイントをいじっておりました。

いつものことながら
まぁお話は何とか出来たのですが、満足度は60%くらい。

自主講座1.jpg

現役の頃から
人を飽きさせないよう、研修時には寝かせないように話してきたのですが
やはりその頃とはちょっと臨場感もトーンも違います。

何より聞いていただいた方々は、
みなさんファンでいらっしゃいますので、私よりははるかに詳しい方も・・・・。
そういう方々にお話するのは、
かくも緊張感が伴うものかと改めて感じた90分でした。

自主講座2.jpg

でも
たぶん初めて知ることもあったのでは?
特に育てられた家・Mendipsについては、
仕事柄2度取材し、プライベートで1回、計3度も訪問していますので。
目を閉じても、家の中をトレースすることが出来ます。

7年半もミュージアムに関わっていたのですが
この経験はありがたいですね。
こういうチャンスを下さったすべての方々に、
いまは素直に、感謝です。

今日は
日長、ビートルズの曲をBGMにして過ごしておりました。


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ジジババの幸せ(孫二人の運動会)

文句なしの秋晴れ。
青い空に白い雲・・・。
まさに運動会日和の1日でした。

運動会の空1.jpg

1ヶ月前から孫たち二人が通う幼稚園の運動会予告。
「万障お繰り合わせの上・・・」という文言が
口に出るほどよく使ったものですが、
私もしっかり手帳に書き込んでありました。

9:15スタートゆえ
直接幼稚園に着くためには8時前には家を出なければなりません。
さっそく、
1994年5月Windows用が発売されてからの愛用ソフト、
「駅すぱあと」で逆算して、乗車電車を調べます。
※このソフト、いまは無料の同類がありますが、
私、超!便利ゆえ年間サポート代を払い込んでの20年を超える利用歴。

おかげさまで開会5分前には幼稚園に着きました。

いよいよ始まりはじまり。

運動会 全体.jpg

親や私たちのようなジジババで結構満席です。

運動会 全体2.jpg

下の孫は年少さん。
去年はお兄ちゃんの運動会を一緒に楽しみましたが
今回は園児の一人です。
かけっこもダンスも上手でしたよ。

運動会 奈緒子1.jpg運動会 奈緒子2.jpg

上の孫(年長さん)もいろいろ参加していましたが、
秀逸なのは、
クラス別対抗リレーでアンカーを務め、
見事1位でゴール(黄色のTシャツに白いたすき掛け)。
接戦でしたが最後は、ダントツの一番でした。

運動会 達也1.jpg

優勝チームには全員トロフィーをいただき、こんな感じに。

運動会 達也2.jpg

3段の組み体操でも一番下。
やせている孫の上に2人も乗るのですからハラハラドキドキでした。
よく頑張りました。

彼も来年からは小学1年生。
ですからジジババは、
下の孫(年中さん)の運動会と上の孫の運動会二つに参加せねばなりません。

いつまで元気に
こうして出かけられるかどうかわかりませんが、
人生締めくくりの楽しい幸せなページがまた増えたことに感謝です。
ありがたいですね。



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